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布留(フル)と沸流(フル)
2013 / 03 / 30 ( Sat )
テレビの旅番組で新潟の一宮神社
彌彦神社(いやひこじんじゃ、弥彦神社:新潟県西蒲原郡弥彦村)
が紹介されていました。
そこでは参拝の方法が変わっていて、普通、神社のお参りは
二礼、二拍手、一礼が多いと思いますが、ここでは
二礼、四拍手、一礼とのことでした。

他の神社で四拍手の神社といえば、出雲大社(島根県出雲市)
宇佐神宮(大分県宇佐市)など歴史のある神社のようです。
他に古い神社はどんな神社なのか興味が沸きました。

ウィッキペディアには、
彌彦神社は宮中同様に鎮魂祭を行うとして、
石上神宮(奈良県天理市)・物部神社(島根県大田市)と共に有名である。
と記載されていました。


石上神宮(いそのかみじんぐう)について調べてみると
日本の古い神社の一つ石上神宮(いそのかみじんぐう)は
奈良県天理市にある神社であるがそこで祭られている
布留御魂大神 (ふるのみたま-) が気になります。

そばに布留山(ふるやま)があります。
石上神宮の東方にある円錐形の山、標高266m。
古代には、当神宮の神奈備(かんなび)であったともいわれ、
山中には岩石からなる磐座(いわくら)が現存しています。

神社の後ろの山がご神体というのはよくあることと
思われます。そう考えると石上神社の本当の主祭神は
布留御魂大神 (ふるのみたま-) ではないかと考えました。


この「フル」と百済の「フル」が関係するのかと考えました。
日本の始まりは、やはり奈良かも・・・

石上神宮by ウィッキペディア
古代の山辺郡石上郷に属する布留山の西北麓に鎮座する。
非常に歴史の古い神社で、『古事記』・『日本書紀』に既に
石上神宮・石上振神宮との記述がある。
古代軍事氏族である物部氏が祭祀し、ヤマト政権の武器庫としての
役割も果たしてきたと考えられている。
古くは斎宮が居たという。その中で、本当に斎宮であったか
どうか議論が多いが、布都姫という名が知られている。
また、神宮号を記録上では伊勢神宮と同じく一番古く称しており
伊勢神宮の古名とされる「磯宮(いそのみや)」と「いそのかみ」
とに何らかの関係があるのかが興味深い。


主祭神
布都御魂大神 (ふつのみたまのおおかみ)
  - 神体の布都御魂剣(ふつのみたまのつるぎ)に宿る神霊
配神
布留御魂大神 (ふるのみたま-) - 十種神宝に宿る神霊
布都斯魂大神 (ふつしみたま-)
 - 天羽々斬剣(あめのはばきりのつるぎ)に宿る神霊
宇摩志麻治命 (うましまじのみこと)
五十瓊敷命 (いにしきのみこと)
白河天皇
市川臣命 (いちかわおみのみこと)
 - 天足彦国押人命(孝昭天皇皇子)後裔で、当社社家の祖

百済の初代との関係?

隣国の朝鮮半島の三国時代(高句麗、百済、新羅)のうち
百済の歴史で始祖は建国伝説では、高句麗を建設した朱蒙(チュモン)
の子沸流(フル)が始祖であり、建国後の行方は不明ととのこと
このことから日本に着たのではないかとの考えもあるようです。


百済(くだら / ひゃくさい)は、古代の朝鮮半島南西部にあった
ツングース系扶余=徐族[1]による国家(346年[2] - 660年)。
朝鮮史の枠組みでは、半島北部から満州地方にかけての高句麗、
半島南東部の新羅、半島南部の伽耶諸国とあわせて百済の存在
した時代を朝鮮半島における、三国時代という。
新羅を支援した唐によって滅ぼされ、故地は最終的に新羅に
組み入れられた。

百済の建国神話は『三国史記』百済本紀などの朝鮮史料に様々な話が
伝えられているが、いずれも高句麗と同様、扶余の東明神話の
バリエーションとなっている[4]。

前漢の鴻嘉3年(前18年)、高句麗の始祖である朱蒙の三子温祚が
百済を建国した。温祚の母は卒本扶余の王女であり、北扶余出身の
礼氏の子である孺留(高句麗の第2代瑠璃明王)が太子となったため
、温祚は南方に逃れ「十済」を起こした。
この時、兄である沸流も一緒に南下して海浜に国を起こしたが、
のちに自分の国が弟の国より繁栄していないことを恥じて自決した。
結局その国も温祚の下に帰属し、百姓を受け容れたので国号は「百済」
になったという。また初め百家で海を渡ってきた(百家済家)ので
「百済」とした[5]、ともいう。

別の説
古代朝鮮の歴史記に、「百済本紀」・くだらほんき・ 
ー百済の歴史が記されている書ー があります。
この書の冒頭に、百済建国神話・くだらけんこくしんわ・が書かれています。
その百済建国神話のなかに、「始祖は沸流・フル・」と、書かれています。
『はるか古代、北方の高句麗の王、朱蒙・しゅもう・には、二人の子がいた。
 兄の名は、沸流・ふる・ 弟の名は、温祚・おんそ・といった。
 彼らは、すべての部族を率いて、南下していった。 
 途中、兄弟の部隊は ふたてに分かれた。
 沸流は 海に面した 弥鄒忽・ミチュエル・に、
 温祚は 内陸の 尉礼城・ウィレソ・に、それぞれ建国した。
 弟・温祚の国は 次第に繁栄していき、馬韓・ばかん・のひとつ、
 伯済になり百済・くだら・へと発展していった。
 一方、兄・沸流の国は、衰退していくばかり、これを恥じた沸流は、
 いつのまにか姿を消した‥‥』と書かれる。
 兄・沸流・フル・は、いつのまにか姿を消した、あるいは、自殺した
 という伝承・でんしょう・まであるが、沸流の最後については、誰も
 まったく、わかっていません。
 韓国の歴史学者、金聖昊氏は、「沸流百済と日本国家の起源」 という著書で、
 沸流は 朝鮮半島を南下して、日本列島へと渡来した、
 そして、天皇家の祖となった」と、仮説を展開しました。
 この説では、「応神天皇こそが 天皇家の本当の始祖であり、
 彼こそが 朝鮮半島から来た”沸流”なのです」となります。
                                                 
高句麗と百済の民族は、夫余系とのことなので現在の朝鮮半島の人々とは
民族的に異なるのではないかと考えられる。
半島を統一した新羅系の人々かも・・・

日本人はバイカル湖出身説
日本人とブリヤート人の遺伝子構成が非常に近い事が判る
両者の共通祖先が他の所にいた可能性等もある。
日本人の起源がバイカル地方にあるとは言えない説もある。

朝鮮人はエヴェンキ 族出身説
朝鮮民族の将軍標(トーテム)は中国や日本にはなく
エヴェンキ族は同じようなトーテムを持つ
反論としては、トーテム類はアジア地域で一般的に
広まっている。

近くても違う民族ということはわかります。
ただし、日本人も朝鮮人も多様な民族の混血のような
気がします。
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