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横綱(よこづな)公園(両国)⇒横網町(よこあみちょう)公園⇒慰霊塔
2011 / 01 / 16 ( Sun )
東京都墨田区両国に行きました。
両国といえば、大相撲の両国国技館や東京江戸博物館などが
有名ですが、ここに横綱公園があることを知りました。

ただの公園だと思っていたのですが、大きくて立派の建物が見えました。
調べたら、横綱(よこづな)公園ではなくて横網町(よこあみちょう)公園
でした。
両国は相撲の街だから、横綱(よこづな)公園だと思っていました。

by ウィッキペデイア
横網町公園(よこあみちょうこうえん)は、東京都墨田区横網にある東京都立
の公園である。東京都慰霊堂や復興記念館があるところとして知られている。

東京市(当時)が買収し公園として整備したものである。工事は1923年7月
から始まったが、その最中の9月1日に関東大震災がおきた。
直後、周辺の下町一体から多くの人が、この造成中の公園を絶好の避難場所
とみなして集まったが、午後4時ごろ、地震で発生した火災による熱風が人々
を襲った。

避難の際に持ち出した家財道具に火が移り、さらに巨大な火災旋風が発生
人はおろか荷物や馬車までも巻き上げ、炎の中に飲み込んでいった。
結果、横網町公園に避難した人だけで3万8千人が犠牲になったという。

震災後、その3万8千人の遺体はその場で火葬され、3メートルの高さになる
ほどの大量の遺骨はその場に急遽作られた仮設の慰霊堂に収容された。
やがて東京の復興が進む中、建築家・伊東忠太の設計の元、当公園に関東大震災
による遭難死者約58000人の遺骨を納める納骨堂(三重塔)や慰霊堂が建てられ
1930年に完成。数十個の大瓶に移された遺骨は堂内に安置された。

また横網町公園自体も1930年の9月1日に開園した。翌1931年には当公園内に
関東大震災の惨劇とそこからの復興を後世に伝えるため、復興記念館が完成した。

しかし、1945年東京は第二次世界大戦により再び焦土と化し、多くの犠牲者が出た。
特に1945年3月10日の東京大空襲では多くの犠牲者が出た。

当横網町公園をはじめ、多くの公園に犠牲者が仮埋葬されていた。
その後第二次世界大戦で身元不明の遺骨などを当公園にある納骨堂を拡張し
「震災記念堂」に合祀されることになった。そして1951年に「東京都慰霊堂」
と改称され現在にいたっている。

他には関東大震災の際に、朝鮮人が暴動を起こしているなどというデマの元で
多くの朝鮮人(朝鮮人と間違えられた日本人も)が日本人により殺害され
それを追悼する石碑や、東京空襲犠牲者を追悼し平和を祈念する碑などがあり
横網町公園は関東大震災と第二次世界大戦のメモリアルパークとしての要素が
強い公園となっている。



東京都慰霊堂の三重塔



三重塔下部



関東大震災朝鮮人犠牲者追悼碑


1923年9月に発生した関東大震災の混乱のなかで、あやまった策動と流言蜚語
のため6千余名にのぼる朝鮮人が尊い生命を奪われました。
私たちは、震災50周年をむかえ、朝鮮人犠牲者を心から追悼します。
この事件の真実を識ることは不幸な歴史をくりかえさず、民族差別を無くし
人権を尊重し、善隣友好と平和の大道を拓く礎となると信じます。
思想、身上の相違を越えて、この碑の建設に寄せられた日本人の誠意と献身が
日本と朝鮮両民族の永遠の親善の力となることを期待します。
  1973年9月 関東大震災朝鮮人犠牲者追悼行事実行委員会


東京都慰霊堂 右奥に見えるのが三重塔



中国人僧侶による鐘突き堂 幽冥鐘



鐘突き堂の説明文


この弔霊鐘は、関東大震災により遭難死した死者追悼のため、中国仏教徒の
寄贈によるものである。震災の悲惨な凶報が伝わった中国では、杭州西湖の
招賢寺及び上海麦根路の玉仏寺で、それぞれ念仏法要が営なまれ、中国在留
の同胞に対しても参拝を促した。

また、各方面の回向が終ったのちは、「幽冥鐘一隻を鋳造して、これを日本
の災区に送って長年に亘って撃撞し、この鐘声の功徳によって永らく幽都の
苦を免れしめむ」と宣言した。

その後災情が日を経るに従い甚大であることが明らかになったので仏教普済
日災会の代表2名が来日し、京浜両地区の慰問を行い、これと同時に我が国の
外務大臣並びに仏教連合会に梵鐘の寄贈を申し出たものである。

その後、震災記念堂の計画確定によりこの鐘を横網町公園に安置することに
なった。なお、このことについては上海の王一亭氏の特段の尽力があった。
                               東京都

東京都慰霊堂の内部 誰でも入れます。



東京都慰霊堂の説明文


震災記念堂 東京都慰霊堂由来紀

大正12年9月1日、突如として関東に起った震災は、東京市の大半を焦土と化し
5万8000余人の市民は、業火(ごうか)の犠牲となった。
このうち最も惨禍をきわめたのは、当時横網町公園として工事中の陸軍被服
廠跡であった。世論は、再びかかる惨禍のないことを祈念し、慰霊記念堂を
建設することになり、官民協力して、広く浄財を募り、伊東忠太氏等の設計
監督のもとに昭和5年9月この堂を竣工し、東京震災記念事業協会より東京市
に一切を寄付された。

堂は新時代の構想を加味した純日本風建築の慰霊納骨堂であるあると共に
広く非常時に対応する警告記念として、また公共慰霊の道場として設計された。
3重塔は高さ135尺(約41m)、基部は納骨堂として5万8千余人の霊を奉祀し
約200坪の講堂は祭式場に充(あ)て正面の祭壇には霊碑霊名法等が祭られてある。

以来年々祭典法要を重ね永遠の平和を祈願し、
「備えよつねに」と、相戒(あいいまし)めたのであったが、はからずしも
昭和19年、20年、東京は、空前の空襲により連日爆撃を受け数百万の家屋財宝
は焼失し、10万をこえる人々は、その犠牲となり大正震災に幾倍する惨状に
再び見まわれた。

戦禍の最もはげしかったのは同20年3月10日であった。江東方面はもとより
全都各地にわたって惨害をこうむり約7万7千余人を失った。
当時殉難者は公園その他130ヶ所に仮埋葬されたが同23年より逐次改葬火葬し
この堂の納骨堂を拡張して遺骨を奉安し、同26年春、戦災者整葬事業を完了
したので、東京都慰霊堂と改め永く諸霊を奉安することになった。

横網公園敷地は約6000坪、慰霊堂の建坪は377坪余、境内には東京復興記念館
中華民国仏教団寄贈の弔霊鐘等があり、また災害時多くの人々を救った日本
風林泉を記念した庭園、及び大火にも耐え蘇生したイチョウの木を称(たた)
えた大並木が特に植えられている。
                               東京都

東京都復興記念館


横網町公園復興記念館(震災記念屋外ギャラリー)

大正12年(1923年)9月1日午前11時58分に発生した関東大震災の被害は、死者
及び行方不明者10万6千人余、負傷者5万2千人余、家屋の損害は69万4千戸余
にも達した。

ことに家屋の密集した東京の下町では、地震後発生した大火災による猛火
熱風により、諸々の建築物はもちろん多くの人々が焼死し、その光景は
さながら地獄絵の如く惨たんたるものであった。

当「震災記念屋外ギャラリー」は、その震災による被災品を展示することにより
過去におきたその惨劇を後世に伝え、2度と同じような不幸がおこらないこと
を深く願って建造されたものである。
                                東京都




東京空襲犠牲者を追悼し平和を祈念する碑



靖国神社の問題が近隣諸国から言われることがことがありますが、靖国神社に
代えて、ここを国立にして戦争や災害などで亡くなられたすべてのかたの
慰霊塔として、政治家が参拝すれば問題はなくなるのではないかと考えました。

このほか
震災遭難児弔魂像

この記念像は、大正12年9月1日午前11時58分、関東地方に発生した大地震に
より不幸にして災害に遭い死亡した小学校児童約5,000人の死を悼み、この
不遇の霊を慰めかつ、弔(とむら)わしむることと、永く当時を追憶し
その冥福を祈るため、当時の学校長等が中心となり、弔魂碑建立を企画し
第5回忌辰に際しこれを発表した。

それに共鳴する者が、18万2,027名に及び、その醵金は、1万4,066円47銭にも
達した。その基金で、彫刻家小倉右一郎氏に製作を委託し、完成後当時の
財団法人東京震災記念事業協会に寄付し、その後東京都に引継がれたものである。

なお、この悲しみの群像は、昭和19年第2次世界大戦たけなわのころ、戦力
増強の一助として、金属回収の禍いを受け撤去され、台座だけがむなしく
残されていたが、昭和36年に当初の作者、小倉右一郎氏の高弟である、津上昌平
山畑阿利一の両氏によって、往時の群像を模して、再建されたものである。  
                                 東京都

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明日、1月17日といえば、16年前の阪神淡路大震災が起こった日です。
報道で明日が阪神淡路大震災の日であることを思い出しました。
阪神淡路大震災は、6,434人が犠牲となった戦後最大の自然災害

16日午後5時46分、兵庫県伊丹市の昆陽池公園では平成7年(1995年)
1月17日午前5時46分に発生した阪神淡路大震災・犠牲者追悼のつどいが
開かれたました。
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航空機事故では、8月12日の日航機墜落事故があります。
by ウィッキペデエィア
日本航空123便墜落事故
 日本航空123便墜落事故(にほんこうくう123びんついらくじこ)は
1985年8月12日18時56分に、日本航空(現:日本航空インターナショナル)
123便、東京(羽田)発大阪(伊丹)行、ボーイング747SR-46
(ジャンボジェット、機体記号JA8119)が、群馬県多野郡上野村の高天原山
の尾根(御巣鷹の尾根)に墜落した事故である。

概要
運輸省航空事故調査委員会による事故調査報告書によると、乗員乗客524名
のうち死亡者数は520名、生存者(負傷者)は4名であった。
死者数は日本国内で発生した航空機事故では2011年1月の時点で最多であり
単独機の航空事故でも世界最多である。

夕方のラッシュ時とお盆の帰省ラッシュが重なったことなどにより、著名人
を含む多くの犠牲者を出し、社会全体に大きな衝撃を与えた。特にこの事故
を指して『日航機墜落事故』『日航ジャンボ機墜落事故』と呼ばれることもある。
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災害や事故などのお亡くなりになられたかたのご冥福をお祈りします。



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