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本能寺の変 千利休
2010 / 01 / 02 ( Sat )
元旦のドラマ 相棒で、本能寺の変、秀吉、千利休、堺の商人などを取り上げていました。
明からの幻の茶器を取り上げていました。

本能寺の変のことを考えていたら、~の変とは何かと思いました。
~の変は、天皇が関係しているという文章を見たことがあります。

有名なのは、「変」:政治的クーデターの事。
 本能寺の変、桜田門外の変ぐらいです。

本能寺の変(6月2日)の前日に信長は、本能寺において茶会を開いている。
公家衆を招いた茶会を開いた。
翌日には、明智光秀が本能寺を襲い、信長は亡くなったとされる。

明智の軍勢13000人が武具を着けて更新してくれば、大きな音がするから
遠くにいるときから、信長は軍勢が近づいてくるのがわかっていたはずである。
それなのに逃げていないのはなぜか?

もしかすると、明智の軍勢が信長のところのくることは初めからの予定であったから
かも。明智の軍勢と合流して、そのまま天皇のいる御所に行き、天皇を廃することを
狙っていたとすれば・・・・・。

天皇に対する謀反を防いだのは、光秀ということになる。
本能寺にいた信長の手勢が30人程度とすれば、300人程度で打ち滅ぼすことは
十分であり、13000人の軍勢は要らないように思える。

信長が天皇を廃することを秀吉は、信長から聞いており、家康は光秀から聞いていたとすれば
秀吉の戻りの早さや家康の明智一族に対する厚遇(春日局)が理解できるのではないだろうか。

千利休は信長に見出された茶人であり、秀吉が本能寺の変が起こること知っていたということ
を知っており、そのことが後年、秀吉に切腹させられることになったのではないかとも
考えました。

ウィキペデアで ~の変 を調べてみました。多くの変があったのですね。

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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
本能寺の変(ほんのうじのへん)
天正10年6月2日(1582年6月21日)、織田信長の家臣明智光秀が謀反を起こし、京都・本能寺に宿泊していた主君信長を襲い、自刃させたクーデター事件。


禁門の変(きんもんのへん)
1864年8月20日(元治元年7月19日に、京都で起きた事件。蛤御門の変(はまぐりごもんのへん)、元治の変(げんじのへん)、元治甲子の変とも呼ばれる。

桜田門外の変(さくらだもんがいのへん)は、安政7年3月3日(1860年3月24日)、江戸城桜田門外(東京都千代田区)にて水戸藩の浪士らが大老・井伊直弼の行列を襲撃し暗殺した事件。

薬子の変(くすこのへん)は、平安時代初期に起こった事件である。 平城上皇と嵯峨天皇とが対立するが、嵯峨天皇側が迅速に兵を動かしたことによって平城上皇が出家して決着する。平城上皇の愛妾の藤原薬子や、その兄である藤原仲成らが処罰された。

乙巳の変(いっしのへん・おっしのへん)
中大兄皇子、中臣鎌子らが宮中で蘇我入鹿を暗殺して蘇我氏(蘇我本宗家)を滅ぼした飛鳥時代の政変。その後、中大兄皇子は体制を刷新して大化の改新と呼ばれる改革を断行した。俗に蘇我入鹿が殺された事件のことを指して「大化の改新」と言うこともあるが、厳密にはクーデターである「乙巳の変」の後に行われた一連の政治改革が「大化の改新」である

永禄の変(えいろくのへん)
永禄8年5月19日(1565年6月17日)、三好三人衆(三好長逸・三好政康・岩成友通)と松永久秀らの軍勢によって室町幕府第13代将軍・足利義輝が京都・二条御所に襲撃され、討死した事件である。


承和の変(じょうわのへん)
平安時代初期に起きた藤原氏による最初の他氏排斥事件とされている事件である。

慶安の変(けいあんのへん)は、慶安4年(1651年)4月から7月にかけて起こった事件。由井正雪の乱、慶安事件とも呼ばれることがある。主な首謀者は由井正雪、丸橋忠弥、金井半兵衛、熊谷直義。

正中の変(しょうちゅうのへん)
鎌倉時代後期の1324年(正中元年)に起きた、後醍醐天皇による鎌倉幕府討幕計画が事前に発覚して首謀者が処分された事件である。

禁闕の変(きんけつのへん)
室町時代の1443年(嘉吉3年)9月に京都で起こった後花園天皇内裏の襲撃事件である。吉野朝廷(南朝)の復興を唱える後南朝とされる勢力が御所に乱入し、三種の神器の一部を奪い比叡山へ逃れたものである。

安和の変(あんなのへん)
平安時代の969年(安和2年)に起きた藤原氏による他氏排斥事件である。謀反の密告により左大臣源高明が失脚させられた。

昌泰の変(しょうたいのへん)
901年(昌泰4年)1月、左大臣藤原時平の讒言により醍醐天皇が右大臣菅原道真を大宰権帥として大宰府へ左遷し、道真の子供や右近衛中将源善らを左遷または流罪にした事件。

大寧寺の変(だいねいじのへん)
天文20年8月28日-9月1日(1551年9月28日 - 9月30日)にかけて起こった周防山口の政変である。この事件で西国随一の戦国大名とまで称されていた大内氏が実質的に滅亡し、西国の支配構造は大きく変化した。後年の本能寺の変と並ぶ事件であったといってもよい。

天誅組の変(てんちゅうぐみのへん)
幕末の文久3年(1863年)8月17日に吉村寅太郎をはじめとする尊皇攘夷派浪士の一団(天誅組)が公卿中山忠光を主将として大和国で決起し、後に幕府軍の討伐を受けて壊滅した事件である。尊皇攘夷派による、初めての武力蜂起とされる。大和義挙、大和の乱などとも呼ばれる。

生野の変(いくののへん)
幕末の文久3年(1863年)10月に但馬国生野(兵庫県生野町)において尊皇攘夷派が挙兵した事件である。生野の乱、生野義挙とも言う。

紀尾井坂の変(きおいざかのへん、1878年(明治11年)5月14日)
明治の元勲・大久保利通が東京の紀尾井町清水坂で士族6名によって暗殺された事件。「紀尾井坂事件」「大久保利通暗殺事件」ともいう。

長禄の変(ちょうろくのへん)
室町時代の長禄元年12月2日(1457年12月27日)に赤松家遺臣らが後南朝の行宮を襲い、南朝の皇胤である自天王と忠義王(後南朝の征夷大将軍である)の兄弟を騙し討って、神璽を持ち去った事件。

稲村の変(いなむらのへん)/天文の内訌(てんぶんのないこう)
戦国時代の天文2年(1533年)から翌3年(1534年)にかけて、安房里見氏で発生した内紛。稲村の変という名称は稲村城で発生した里見実堯殺害が発端だったことに由来する。だが、近年の里見氏研究によって、これまでの伝承と史実が全く正反対であることが明らかになった。

長徳の変(ちょうとくのへん)
長徳元年(995年)4月10日の藤原道隆の死後、藤原道長が内覧の宣旨を得た後に起きた政変。道隆の一族、中関白家が排斥される結果となった。

坂下門外の変(さかしたもんがいのへん)
文久2年1月15日(1862年2月13日)、江戸城坂下門外にて、尊攘派の水戸浪士6名が老中安藤信正を襲撃し負傷させた事件。

比企能員の変(ひきよしかずのへん)
鎌倉時代初期の建仁3年(1203年)9月2日、鎌倉幕府内部で起こった政変である。北条氏によって、2代将軍源頼家の外戚として権勢をふるった比企能員とその一族が滅ぼされた事件。

応天門の変(おうてんもんのへん)
平安時代前期の貞観8年(866年)に起こった政治事件である。

本圀寺の変(ほんこくじのへん)
永禄12年1月5日に三好三人衆らが京都本圀寺[1]に仮御所をおいていた室町幕府将軍・足利義昭を襲撃したことによって生じた戦闘である。なお、六条合戦とも呼ばれる[2]。

伊賀氏の変(いがしのへん)
鎌倉時代前期の貞応3年(1224年)6月から閏7月にかけて起こった鎌倉幕府の政変事件のことである。北条義時の死去に伴い、伊賀光宗とその妹で義時の後妻伊賀の方が、伊賀の方の実子政村の執権就任と、娘婿一条実雅の将軍職就任を画策した。

梶原景時の変(かじわらかげときのへん)
鎌倉時代初期、正治元年10月25日から翌正治2年1月20日(1199年11月15日 - 1200年2月6日)にかけて鎌倉幕府内部で起こった政争。初代将軍源頼朝の死後に腹心であった梶原景時が御家人66名による連判状によって幕府から追放され、一族が滅ぼされた事件である。頼朝死後に続く幕府内部における権力闘争の最初の事件であった。

貞治の変(じょうじ の へん)
日本の南北朝時代後期(室町時代初期)の貞治5年(1366年)、室町幕府の執事(のちの管領)であった斯波義将およびその父で将軍足利義詮側近の有力守護大名であった斯波高経が失脚した事件。「貞治の政変」とも。

喰違の変(くいちがいのへん)
明治7年(1874年)1月14日に東京の赤坂喰違坂で起きた、右大臣岩倉具視に対する暗殺未遂事件。「赤坂喰違の変」「岩倉具視遭難事件」などとも。

承応の変(しょうおうのへん)
慶安5年9月13日(1652年10月15日)に起こった事件。戸次庄左衛門の乱、承応事件と呼ばれることもある。主な首謀者は別木庄左衛門、林戸右衛門、三宅平六、藤江又十郎、土岐与左衛門。

永久の変(えいきゅうのへん)
永久元年(1113年)に発生したとされる鳥羽天皇暗殺未遂事件。下手人とされた童子・千手丸の名前より、千手丸事件(せんじゅまるじけん)とも呼ばれる。

二階崩れの変(にかいくずれのへん)
戦国時代の1550年(天文19年)2月に勃発した豊後の戦国大名・大友氏の内紛、お家騒動である。義鑑父子の襲撃が大友館の二階で行われた事に由来する。

水島の変(みずしまのへん)
南北朝時代末期の永和元年/天授元年8月26日(1375年9月22日)に、九州探題今川了俊が、筑前守護少弐冬資を肥後国菊池郡水島(現在の熊本県菊池市)で謀殺した事件。

乙丑の変(いっちゅうのへん)
1865年(乙丑年)に、福岡藩で起こった佐幕派による勤皇派弾圧事件である。

伊予親王の変(いよしんのうのへん)
大同2年(807年)に起こった政変。藤原吉子・伊予親王母子が処罰され2人は自殺したが、後に無罪が認められた。

朔平門外の変(さくべいもんがいのへん[1])
江戸時代末期(幕末)の文久3年5月20日(1863年7月5日)、尊王攘夷を唱える過激派公卿として知られた姉小路公知(右近衛少将、国事参政)が、京都御所朔平門外の猿ヶ辻[2](さるがつじ)で暗殺された事件。「猿ヶ辻の変」とも。一公卿の暗殺に留まらず、当時の中央政局に大きな影響を与え、同年の八月十八日の政変が起きるきっかけにもなった。
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