スポンサーサイト
-- / -- / -- ( -- )
上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
--:--:-- | スポンサー広告 | page top↑
家光廟 大猷院(たいゆういん)
2009 / 05 / 17 ( Sun )
日光東照宮を大幅に改築、増築した三代将軍徳川家光の墓のある
寺院だそうです。

家光の希望で、徳川家康の東照宮より立派にならないようにがあり
東照宮に比べると豪華ではないとのこと。

破魔矢
拝殿の中で、「破魔矢」の説明があった。
要はセールスです。
一年ごとに返すのが一般の破魔矢ですが、ここの破魔矢は永遠のもので
返す必要がないとのこと。

夜叉門の背面左側に立っている「烏摩勒伽」(うまろきゃ)だが、この像は
右手に矢を持ち、左手には弓を携えている。この矢が「破魔矢」だ。

販売していた破魔矢は金色で、矢の周りを龍が巻いている形です。
価格は、三千円です。
正月の破魔矢が一本千円とすると三年分で一生分ということになります。

東照宮でも同じように通常毎年返すが、ここのは返す必要がないとの
説明で販売しているものがあったかのように思います。

「烏摩勒伽」(うまろきゃ)
20090517213834



20090517213825



二世権現 [編集] by wikipedia
東照大権現として祀られた祖父の家康を深く尊崇していたとされる。

春日局筆と伝わる「東照大権現祝詞」(日光山輪王寺所蔵)には、病弱で3歳時に大病した
家光が家康の調薬によって快復した、以後も病に臥せるたびに家康の霊夢によって快復
したとする話や、家光を粗略に扱う秀忠夫妻に激怒し、家光を駿府に引き取って家康の養子
にしてから三代将軍に就けると叱責した話が記されている。

これらに加え、家康の命日と家光の生誕日が17日と一致していることなどが、父秀忠よりも
祖父家康の恩を意識していたと考えられている。

寛永13年(1636年)に東照宮を造営すると、日光社参を生涯のうちに10回行っている[3]。
晩年、家光は度々家康の姿を夢に見て、狩野探幽にその像を何度も描かせている。
また、家光は身につけていた守袋に「二世ごんげん(権現)、二世将軍」や「生きるも 
死ぬるも 何事もみな 大権現様次第に」等と書いた紙を入れており、これも家康との
つながりの意識の強さと、その尊崇ぶりを著すものと見られている。


異説 [編集]
小説家八切止夫は乳母の春日局が家光の生母ではないかという説を立てた。
紅葉山文庫にあった「松のさかえ」という史料が、明治44年に国書刊行会[7]により
活字本として刊行された。

そのうちの「神君家康公御遺文」(慶長十九年二月二十五日付)に、
「秀忠公御嫡男 竹千代君 御腹 春日局 三世将軍家光公也、左大臣」と記されて
いることを根拠としている。

この説を発展させ、家康が実父ではないかという説もある。家康への尊崇ぶりと
「二世権現、二世将軍」と書いた紙が家康の子であるという根拠とされることもある[8]。

一冊でのみこむ家康・秀忠・家光 徳川三代一冊でのみこむ家康・秀忠・家光 徳川三代
(2000/03)
小和田 哲男

商品詳細を見る
スポンサーサイト
21:38:42 | 雑感・独り言 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top↑
<<慈眼堂 天海大僧正 | ホーム | 日光の宿泊先>>
コメント
コメントの投稿














管理者にだけ表示を許可する

トラックバック
トラックバックURL
http://como4976.blog62.fc2.com/tb.php/2456-38430b4e
この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)
| ホーム |
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。